東北シェフの活動

投稿日:2011年5月5日 投稿者:sot

■東北のシェフがとてつもなく頑張ってくれています

 

美味サライの尾崎さんからも東北シェフたちの炊きだしレポートをいただいたりしていました。今月20日発刊の美味サライに詳しくその模様が掲載されますが、その活動に同行された岩手出身のかとう真紀子さんのレポートをお届けします。このレポートに登場されるアル・ケッチアーノの奥田シェフ、ロレオールの伊藤シェフも今度のシンポジウムに参加してくださることになりました。(岡部)

 

かとうレポート1「初めての炊き出し」

 

私たちが最初に被災地の炊き出しに入ったのは3月19日、
宮城県の南三陸町の、ある避難所でした。
アル・ケッチァーノ奥田政行シェフ率いる炊き出し隊。
まだ撤去されないがれきの山を避けながら半ば未整備の道路を進む強行軍。
さらに道標も目印になる建物も失われた現場では、
あらかじめ人づてで連絡をしていた避難所の場所を探すのに、
何度も同じ道を行ったり来たりしました。

 

小型保冷車と乗用車に
煮込みハンバーグを600個と、ゆでたポテトのバター和え600人前。
それぞれ真空パックにして
現地でお湯で温めればすぐに食べられる状態にして持ち込みました。
その他に味噌汁用の小松菜を5百束、そして味噌。
ご飯は山形県の庄内町が南三陸町に、
震災翌日から毎日1トン送っていたものでまかないます。

 

お昼ご飯の時間に合わせて現地に入ったところ、
食料が限られている現場では、朝9時と夕方4時の1日2食というルールが
決められていました。
電話やインターネットなどの連絡手段が無い当時は、
そうしたことも事前には分かりませんでした。

 

避難所となっていた中学校の調理室では、
自らも被災者であるお母さん方が、
有志の炊き出しチームを組んで働いていました。
持ち込んだ食材の温め方を伝えて夕方の食事に出してもらうことに。

 

食材を置いて帰ろうとしたところ、
湯のみに入った温かい牛乳を差し出されました。
「被災者のための牛乳です、いただけません。」とお断りしたところ、
「みんな頂いた後で余ったので」とのこと。
近くの酪農家が、電気と燃料がなくて保冷も運搬もできずに捨てていたが、
もったいないからと毎朝絞りたてを届けてくれるのだそう。
見ると大きな鍋に温められた牛乳がたっぷりと残っています。

 

そこで米酢を使ってチーズを作る方法を伝えることにしました。
急きょ調理場ではじまったチーズ講習会。
それまで張りつめていた空気が少し和らいだ気がしました。

 

奥田シェフが料理人とわかると、様々な質問が飛んできました。
「昨日サケ丼にした鮭がまだ残っているから味つけをみてほしい。」
「キャベツが大量に届いているがどう調理したら美味しく食べられるか。」

 

昨日まで家族の分しか料理をしたことのないお母さん方が、
600人分の食事を毎食作らなければならない
というプレッシャーの中に置かれているという現実を知ったのでした。

 

料理人の本来の役割に気づいた、
忘れられない一日となりました。
(奥田)

 

かとうレポート2「涙を流すきっかけ」

 

3月28日。
今日も、岩手県南部の内陸部に店を構えるロレオールの伊藤勝康(かつやす)シェフは、
軽ワゴンにゴトクとガスボンベ、折りたたみテーブル、
そしてカレーの入った寸胴をいくつも積んで沿岸に向かいました。
釜石市の半島の先にある尾崎白浜の避難所。
この地域に震災後、外部から人が入ったのは私たちが初めてでした。

 

すでに何度か炊きだしをする中で、
カレーにも工夫が必要だということを知りました。

 

避難所はお年寄りが多いので、
歯が弱くても食べやすいようにスープカレーにして持ち込み、
現地でご飯を足してリゾット風にして出すことにしました。
まだ朝晩が0度前後のこの時期、
せめて食べ物で少しでも体を温めていただきたいと思ったのです。

 

具材は前沢牛と玉ねぎ、ジャガイモ、人参をたっぷり、
そして現地で青菜を入れます。
被災地で配られる食事は炭水化物が多く、
圧倒的に動物タンパクとビタミン類が足りていません。
被災地で風邪が流行るのはこうした理由が実は大きいこともわかりました。
この日は小松菜を最後に入れて、食感が残るまま盛りつけます。
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メニューはこの他に、ピザ生地をパン状に焼いたロケットパン、
そしてお菓子がつきます。
ロケットパンは、中目黒のピッツェリア・聖林館の柿沼進氏が
夜通し車を運転して持って来てくれました。
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お菓子は、和ラスク。
モンサンクレールの辻口博啓シェフが、前の週に2万5千個、
こちらも夜通し、3トントラックに満載で運んで来てくれたものです。
その際に配って残ったものをロレオールにストックし、
以降伊藤が炊き出しの時に配っています。

 

避難所には赤い三角巾をしたお母さん方がいました。
地域内の400人の食事の世話をしている地元婦人会のみなさん。
避難所の廃校となった小学校の給食室で、
リーダーの方が厨房の使い方の指示をしてくださいます。

 

110505_takidashi21 みるとマスクの奥で、涙があふれていました。
「だれかに食事を作ってもらえるなんて・・・。」
消え入りそうな言葉が聞こえてきました。
これまで気丈に皆を率いてきた背中が震えていました。

 

その涙から、
計り知れない悲しみを背負いながらも、まわり仲間を気遣いながら
生活しているんだということを知りました。

 

みんなが食べ終わって一番最後に食事をとるお母さん達の口から、
大変だった体験の断片が、とつとつとこぼれてきます。
「おいしい・・・」さまざまな意味をその言葉の奥に感じました。

 

だまって聞いてあげることしかできないけれど、
涙を流すきっかけを作ってあげるのも大切だ。
われわれには後押ししてくれる食の仲間がいる。
「心の炊き出し」をしようと思った。
(伊藤シェフ)

 

かとうレポート3「友」

 

山形県鶴岡市の奥田政行シェフと岩手県奥州市の伊藤勝康シェフは、
お互いスタッフをやりくりし、
食材の仕込みも分担しながら、時に共同で炊き出しをしています。

 

110505_takidashi31 活動範囲は主に、岩手県沿岸南部と宮城県沿岸北部。
奥田シェフは鶴岡に2店舗あるうちの1店を閉めて
仕込み用の厨房にまわしています。
伊藤シェフはスタッフが少ないため、
炊き出しに出る時は店を閉めざるをえません。
現場がひっ迫している当初はそうまでしても
食料を避難している人たちに持っていく必要がありました。
食材は地域の農家や精肉店がずいぶん助けてくれました。
こんな時、普段のつながりの有り難さが身にしみます。
支え合える仲間がいる、そのことがこの活動の力の源です。

 

4月14日。
この日は石巻に向かいました。
旧雄勝町の方々が集団避難している中学校。
そこには奥田シェフの店の社員、高橋君の妻の両親がいます。
震災当日、高橋君の妻と生まれたばかりの子供は
石巻の実家に里帰りしていました。
奥田シェフと高橋君は地震の翌日、がれきに阻まれるなか
高橋君の家族を捜しにいきました。そして奇跡的に再会。
それ以来、この避難所に食事を届けにいくことが願いでした。

 

110505_takidashi41地震からひと月たち、ようやく念願が叶いました。この日のメニューはハンバーグにポテトサラダ、オムレツ、生野菜、
それと海苔とショウガのスープです。
沿岸に暮らす人は毎日のように海草を食べていたはず。
私たちの炊き出しでは
わかめや海苔をみそ汁やスープでなるべくお出しするようにしています。
これはとても喜ばれ、時に現地の方々の涙を誘うこともありました。

 

食材は、小学館の尾崎さんが調達しました。
雑誌「美味サライ」の編集長の尾崎靖さんは、
日本中の優れた食材の生産者やメーカーと
強固なネットワークをもっています。

 

ポテトサラダは日本野菜ソムリエ協会のメンバーからの差し入れです。
こうしたたくさんの人のつながりと
みんなの被災地への思いで
私たちの炊き出しは支えられています。

 

“いかがでしたでしょうか?”
食事を終えた方にたずねると、
「生野菜が良かった。」と口々におっしゃってくださいました。
聞くと、避難所では、炊き出しの多くがカレーかラーメン。
連日同じものが続くこともあるそうです。

 

避難所では圧倒的に生野菜が足りていないのが現状です。
これからの季節、さらに食材の扱いに慎重さが求められます。
プロだからこそできることがあるとここでも感じました。
(かとう)

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